フエ王宮の建築物群



フエ(フランス語風にユエと呼ばれる事もある)はベトナム中部の都市で、トゥアティエン・フエ省の
省都で、漢名では「順化(トゥアンホア)」と表されており、現在でもこの名前が用いられています。

フエは10世紀頃にチャンパ王国(チャム族の作った王国)の中心都市の一つとして存在していました。
1306年まではチャンパ王国の烏里(ウリク)州と呼ばれておりました。大越陳朝が領有した後は、北の
順州(現クアンチ省)と、南の化州(現トゥアティエン・フエ省)に分割され、現在に至っています。

1558年以降は広南阮氏の本拠地となりましたが、タイソン朝による中断の後、1802年に成立しました
阮(グエン)朝の都が置かれました。フエが在る中部2省(クアンチ省、トゥアティェン・フエ省)は、
広南阮氏時代の名称は「順化都城」と言われ、阮朝時代の正式名称は「富春京師」と呼ばれていました。
阮王朝は1945年まで13代にわたって続きましたが、王政が終わるとこの王宮は廃れていきました。

阮朝王宮はフォーン川の北岸にあり、17世紀頃から造られた城塞を、阮朝の支配となった1803年から
20数年かけ、北京の「紫禁城」をモデルとして大規模に増築した王宮です。王宮は一辺が約 2.2kmの、
正方形の城壁に囲まれた「都城」の中の、南東辺近くに在ります。約 600m四方の堀と城壁で囲まれた
地域を「皇城」(大内[Dai Noi]とも呼ぶ)と呼び、その中に王宮が在ります。

北京の紫禁城を模して造られ、四方には南の「午門」を始め4つの門が造られました。ベトナム戦争で
ほとんどの建物が破壊されてしまいましたが、行政が行われていた「太和殿」や、歴代皇帝の墓である
「世廟」などが僅かに復元されました。王宮全体の復元作業は今も続けられています。

フエの町は1993年にユネスコ世界遺産の文化遺産に「フエの建造物群」として、ベトナムでは最初の
世界遺産として登録されました。フエの王宮へはフエの街の中心部に泊まっていれば、歩いていける
所にありますが、フエ駅や長距離バスターミナルからは、少し離れているので、タクシーを利用した
方が早くて確実でしょう。フエの町は観光の町でもあり、多くのホテルやレストラン、商店、市場
などがあります。従って旅行者にとっては快適な町のひとつと言えます(暑季は止めた方が良い)。




      巨大なフラッグタワー            都城への出入口のガン門  阮朝が造ったフエは、一辺が約 2.2kmの、正方形の堀と城壁に囲まれた「都城」と呼ばれる王都で、  都城の外壁には、何ヶ所か門が造られていました。フォーン川に架かる「フースアン橋」を渡り、  左へ少し行くと「ガン門」が在ります。この門を潜ると右側には大きな大砲が展示されていました。  王宮前の門の外側には「フラッグタワー」と呼ばれる国旗掲揚台があります。現在のポールの高さは  37m有りますが、台風でたびたび倒壊したそうで、現在の物は1949年に完成したものだそうです。  1968年のテト攻撃の時には24日に渡り、解放軍の旗がかかげられていたそうで、現在もベトナムの  大きな国旗が掲げられております。

       王宮正門(午門)と内堀            正門(午門)への橋の欄干  「都城」の中の南東辺近くに在る、約 600m四方の堀と城壁で囲まれた地域は、皇帝達の住む王宮が  在った所で、「皇城」と呼ばれています。皇城には東西南北に4つの門があり、南側に在る「午門」と  呼ばれる門が正門で、門の上には五鳳楼が建てられています。太陽は皇帝の象徴で、太陽が真上に  来る南門を正門とするのが中国伝来の習慣だそうで、それに習っているようです。「皇城」を囲って  おります、内堀に架かる、正門への橋の欄干には、多くの装飾などが施されていました。

         太和殿                  皇帝の玉座  「午門」を入った正面の、前庭の奥に在る建物が「太和殿」と呼ばれている建物です。蓮池に架かる  橋は「金永橋」で、皇帝だけが渡ることができたそうです。この「太和殿」は皇帝の即位式や、国賓の  歓迎式典など、王室や国家の重要な行事を行っていた、この王宮のメインとなる建物です。  石畳の前庭には、中国の「紫禁城」と同じ様に、文武百官が階級の序列に従って並ぶように、階級が  書かれた石が立てられていました。宮殿の内へ入ると、正面中央には、復元された玉座が置かれて  おりましたが、他には何もなく、建物の中はガラ〜ンとしていました。奥の部屋にはこの王宮の  模型が置かれていましたが、「紫禁城」をまねて造られたこの王宮の、往時の姿が分かります。

      巨大なカエルの置物                大鍋(?)  「太和殿」の後へ出ると、庭などに大きなカエルの置物が集められているのが見受けられました。  どのカエルも大きな口を開けた形で、このカエルにどんな意味が有るのかは分かりませんでした。  復元された「太和殿」の後にも、左右にも在ったはずの建物は、全てが破壊されて原っぱになって  いましたが、所々に大きな鍋の様な器が雨ざらしで置かれていました。本来は建物の中にあり、  金属だったので、焼け残ったのかも知れません。このような器は中国などでも見受けられました。

      大和殿から後方への門            復元工事が行われている宮殿  「太和殿」の在る区域から後方の敷地へは塀があり、小さな門が造られていました。塀も門も黒い  カビで覆われていましたが、フエは高温多湿なので、この様なカビに犯されてしまうのでしょう。  このような古い遺跡にへばりつく黒カビは、ホイアンやハノイなどでも良く見かけました。  この門から先へ進むと広い原っぱに成っていますが、かつては宮殿の建物が連なっていた所で、  戦争で全てが破壊されてしまいました。現在は広場の左右に復元された建物が幾つか在ります。  王宮を全て復元させるには、膨大なお金と時間が掛るでしょう。基礎石しか残っていない方が、  「兵どもが夢の跡」という感じがして、往時の様子が偲ばれ、これはこれでなかなか良いものです。

     皇城の北側に在った吾妻屋             皇城北端の壁  「皇城」の敷地を真っ直ぐ行きますと、北側の城壁にぶつかりますが、その手前の左右には、2つの  同じ形をした吾妻屋が建っていました。この吾妻屋も中国式の形で、我々もここで休みましたが、  当時もこの「皇城」に住む人々が、散策をした時の休み場として使っていたのでしょう。  「皇城」の北側の、城壁の所は一段高い台に成っており、この台の上から外が眺められる様になって  いましたが、台への階段の造りからして、ここを上ると北門につながっていたのでしょう。

     皇城北側の外に在る堀             内堀の外側に在る「和平門」  「皇城」の北側に在る門を出ますと、幅の広い堀が在りますが、これは「皇城」を囲む内堀とは少し  性質が違うようで、幅がとても広く、中には小さな人工の島が有りましたので、池として造られた  ものかも知れません。この幅の広い堀に架かる橋を渡りますと、対岸には「和平門」が在ります。  この「和平門」から外は、もう「皇城」の外になり、一般の民家や商店などが集っていました。

     皇城への東門(顕仁門)           都城外へ通じるトゥオントゥ門  内堀沿いに東へ回りこんでしばらく行きますと、皇城東門(顕仁門)が見えて来ます。北門は土台の  部分しか残っていませんでしたが、この東門は原型を留めていました。これが復元された門なのか  どうかは確認していません。この門の東側には、宮廷美術博物館、歴史革命博物館があります。  皇城の東南の角まで行きますと、そこには「都城」の出入口の門である「トゥオントゥ門」が建って  いました。先ほど入って来た「ガン門」との距離は短く、この様な「都城」への出入口の門は、四方に  かなり在ったようです。この門などは、自動車が通り抜けをしており、一般的な通路の1つとして  現在でも使用されていました。

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